サークルの彼方へ

ホワイトクラス 5 ~知らない、ということを知る~

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ホワイトクラス第5回目の講義は、知らないということを知ることについてです。

☆謙虚さ

まず、この知らないことを知る、というのは、人間の進歩段階において、謙虚という在り方を教えてくれます。

最初に、謙虚であるということは、どういうことか?
一般的に受け取られているイメージ、そしてそのイメージが本当に役に立つのかどうかを見ていきましょう。

さて、
謙虚さというと、他人に対してや状況に対して謙虚である、という風に受け取られがちです。
謙虚さの測定対象は、常に外側に関わるものになっています。
謙虚である事は、他人や外側の状況に対してではありません。
謙虚である事は、自分自身に対するものです。
他人や状況がどうあれ、いつもいつも自分自身に対して謙虚であってください。

皆さんの周囲にいる人々を観察してみてください。
自分が謙虚だと思う人をリストアップして見てください。
あなたは、謙虚さについて、どんな基準を持っていますか?

一般的に言われる謙虚な人というのは、
間違ったエゴという暴れん坊をなんとか抑えておかないと、争い、いさかいなどの人間関係の悪化につながり、ひいては自分のために良くない結果を引き起こす、という理解をもっている人です。
確かにこれは、世界の水準から見れば、進歩している在り方です。
模範的な在り方であり、尊重されるものでしょう。

ただ、ここで見落としてならないのは、その動機です。
つまり、自分が不利益をこうむるなどの、怖れが基盤にあるのです。
間違ったエゴへの怖れ。間違ったエゴが何をもたらすかへの怖れ。

怖れが基盤にある生き方は、決して進歩的な生き方ではありません。
謙虚さの在り方が、外側に依存しているからです。

ここで、謙虚だと思われる典型的な例を見てみましょう。
一例として、サッカー選手へのインタビューを取り上げてみます。

☆謙虚なストライカー

「あのゴールは、たまたま私が蹴りこんだだけの事です。
チームメイトが助けてくれた結果、あのゴールが生まれたのです。
私は、チームメイトに感謝しなければいけません」

こういうインタビューが載り、インタビューアーは、必ずといっていいほど、

「彼は、謙虚なストライカーだ」

というような文章を書きます。
そして、そのインタビューを読んだ多くの人が、「あいつは、すごい。あいつは、あれだけのプレーをしたのに、なんて謙虚なんだ!」
というような感想を持つことでしょう。

例えば、こういう風にして、謙虚さの在り方が示され、社会でそれが素晴らしいとされれば、お手本となって、指導者は、教え子にそれを模範にするよう指導していくのです。

このように催眠がかけられていくのです。

このように指導されたプレーヤーは、指導者から教えられた「かくあるべき」を疑うことなく、表面的に受け入れます。
もしゴールを決めた後、うっかり、「俺って、すげー」とでも発言してしまえば、指導者から怒られるでしょう。なぜなら、かくあるべきを示さなかったのですから。

自分自身で何が謙虚さかを追求しもせず、ただ「こう覚えておけ」ということを覚え、ただそのコマンド通りに従っていくのなら、そのプレーヤーが示した謙虚な在り方は、単なる形だけのものになってしまいます。

ゴールを決め、指導されたとおりのことを言うと、みんなから拍手、賞賛される。
それは一種の快楽であり、当人は、「これはいい。これは素晴らしい経験だ」
と更に信じ込んでしまいます。

もちろん、本当にみんなのおかげだ、と実感する事もあるでしょう。
ただ、私が観察する限り、それを実感して、そのまま言葉で表現した時は、言葉の力が全く違うものになっています。
そして、大半は形骸化された、「こう言っておけばいい」というものです。

こういうわけで、自分にとっての謙虚な在り方というのが調べられないで、ただただコピーを生きているのが、現状です。

さて、最初に戻って、ゴールを決めたサッカー選手は、社会通念上は、謙虚な在り方をして賞賛されますが、果たして本当でしょうか?

彼は、チームメイトのおかげだと言っていますが、もっと言えば、相手チームの協力がなければ、そのゴールは生まれないのです。
相手選手のパスミスや、トラップミスなど様々な相手選手のミスに助けられて、ゴールできているのですから。

ですから、もしその選手が、このように発言したら、どうなるでしょうか?

「このゴールは、チームメイトのみならず、相手チームも含めた全員のゴールなんです。このゴールで私は気付いたんですが、そうであるなら、勝ち負けは関係ないものとなってしまいます。なにせ、全員のゴールなのですから。
みんなで喜ぶものなのです。そうなると、なぜ勝ち進んでいくチームだけが優秀となるのか、私にはわからなくなりました。それは、私にとって、全く意味のないものだということが、今回のゴールでわかりました」

もしこういう発言をしたなら、どうなるでしょうか?
恐らく、意図的に削除されるか、その選手は消されるでしょう。
なぜなら、ドラマは続けられなくてはいけないのですから。

☆分離ではなく、全体

しかしながら、これは非常に的を得た、進歩的な発言ではないでしょうか?
なぜ進歩的かといえば、そこに全体が反映されているからです。
分離ではなく、全体が反映されているが故に、進歩的なのです。

よって、謙虚さを測る基準は、そこにいかに全体が反映されているか、ということになります。
また、これは謙虚さのみならず、進歩を測る基準は、常にそれがどう全体を反映しているのかに依るのです。

もう一回、彼の発言に戻りましょう。

彼は、チームメイトのおかげと言いましたが、実際に話してみるとどうでしょうか?
本心は、「何でもいいけど、俺がゴールしたかった」というものではないでしょうか?

私は、人生の中で、謙虚だと言われている人々と沢山あってきました。
しかしながら、よくよく調べていくと、やっぱり謙虚ではありませんでした。
態度は、紳士的かつ知性あふれる人であったり、思いやり深い、優しい人だったりしました。

けれども、よーーく見てみると、そこにはやっぱり、”わたし様”、”おれ様”が座っているのです。
誰もが、自分が思う自分を頑なに守っているのです。

さて、わたし達はこのように、謙虚に見えても、実は謙虚ではなく、謙虚に見せているだけ、ということがわかってきました。

この世界では、見せているだけということが非常に重要視されています。
そのものではなく、見せている、というのはまさしく、エゴの真骨頂です。
見せている、というのは、イメージでいいからです。
イメージが何より重要なのです。事実は、重要ではないのです。

繰り返しますが、この態度は生きていくためだけであれば、非常に有効に働きます。
しかしながら、私たちは、このような態度をもう卒業してしまったのです。

自分が他人よりいかに有利に人生を生きていくかではなく、本当に本当のことが知りたい状態になっているはずです。
ホワイトクラスの段階は、世界が提供してくれる以上のものを望み始める段階です。

では、見せかけの謙虚さではなく、自分自身に対して謙虚である、ということがどういうことかを見ていきましょう。

このこともまた、お手本に出逢えば、すぐにでも核心を理解できるのです。
ただ、私の人生では、謙虚さということに関しては、人間のお手本は現れませんでした。
誰も彼もが、重い荷物を引きずって歩いていました。

謙虚であることを教えてくれたのは、人間以外のものでした。
鳥やねこ、花や草木が教えてくれたのです。

☆風から学んだラムサ

確か、ラムサはこういう風に語っていました。

「私は、風から学んだ。変性自我におかされているような人間からは、学ぶ事はなかった」

正確な文章ではありませんが、こういうことを言っていました。

これは、非常に共感できる理解です。
ただ、神、実在はどういう形ででも教師として現れることができるのです。
ときには、人間として。ときには、毛虫として。

前回にお話した、仕返しに全く興味を示さなかった彼は、まさしくその典型です。
彼は、教師としてグルとして、私の前に現れ、教えてくれました。
彼と連絡先を交換する必要すらなかったのです。
人間がよくやる継続的な関係というものは、必要ありませんでした。

その存在が、進歩にあたり、どういう形が必要なのかは、神は完全に理解しています。
それが人間である場合も、他のものである場合もあるのです。

ですので、私たちが気をつけなければいけないことがあるとしたら、決め付けてはいけない、ということです。

ラムサは、風から学びました。
あなたは、そうかもしれないし、そうではないかもしれないのです。
今、そこにあるものが完璧なのです。
あなたにとって、そこにあるもので間違って存在しているものは、何一つないのです。

けれども、あなたは間違ったエゴであるがために、あなたは自分自身が何者かをすっかり忘れてしまったために、その完璧さに気付けないのです。

できるならば、この全てに心を開いていてください。
できるならば、この全てを許してください。

それは、まさしく謙虚な在り方です。

さて、自分自身に対する謙虚さというものが、どういうものかをさらに
見ていきましょう。

☆間接的な知識

それを理解する一つの手助けが、自分が何も知らない、ということを知ることになります。

いいでしょうか?
私たちは、自分が知っていると思っています。
けれども、これが根本的な間違いで、本当は何も知りません。

知っている、と思っているのは、間接的な知識であって、直接的な知識というものは、全くないからです。

間接的な知識、というのは、つまり誰かの借り物だということです。
親から教えられた事、学校で教わった事、経験でわかったこと、仕事を通して分かった事…。

このような知識は、全て間接的な知識です。

何度も言いますが、間接的な知識が不要なのではありません。
ただ、間接的な知識をいくら振り回しても、根本的には、あなたは何も知らない、ということなのです。

☆人は、努力して手に入れた物にしがみつく

私が経験した中で言える事は、知識を持っていれば持っているほど、人は傲慢になります。

なぜでしょうか?
なぜなら、その知識を苦労して、努力して手に入れたからです。
苦労して、努力して手に入れたものに、人はしがみつく傾向があることがわかりました。

もう一度、言います。

人は、苦労したり努力したりして手に入れたものに、しがみつくのです。
なぜ繰り返すのでしょうか?

☆冗談ではありませんでした

私にしてみれば、これはすぐに見れば、わかるものでした。
今まで、平凡な私がわかるのであるから、世の中全ての人は、こんなことは、とっくに気付いているのだと思っていたのです。

気付いていながら、冗談で演技をしているのだと思っていたのです。
ですから、ちょっと本気になれば、すぐにでもこれらがもたらす問題を解決できる、と思っていたのです。

しかしながら、後々わかったことは、人は全く気付いていない、という事でした。
一度死んだ後、あるいは目覚めが起こった後、私はまず、家族が眠っていることを見ました。事実、見たのです。それは、非常にショッキングな体験でした。
続いて、世の中の人もまた、眠りながら歩いている事を見たのです。

ただ、このことは、当時の私には、なかなか受け入れがたいことでした。
ですので、たぶん冗談というか、知っていながらわざと問題を解決しないんだという結論を出しました。

けれども、調べれば調べるほど、それは違うことがわかってきました。
経験を重ねていくうちに、どうやら人はほんとに気付いていない、という結論を出すほかありませんでした。

このことが受け入れられなかったのは、実際に会って話せば、人々は、はっきりと明瞭に話せるからです。
いろんな知識を持っていたりするのですが、しかしながら、ただそれだけでした。
それ以上の深さがまるでありません。

例えば、努力して手に入れたものへの執着に関して、それが何をもたらすのか?
に関しての知恵や生き様をまるでもっていませんでした。
これは、本当に驚くべき事で、全く受け入れられないことでした。

私が観察してわかったのは、既に講義でお話したように、自分を生きる、ということをないがしろにした結果だ、ということです。
自分がどう生きたいか?ということを最優先事項にせず、ただ「こうしろ」「ああしろ」という社会が要求する命令通りに生きてしまっている結果だ、ということでした。

☆分離をもたらす知識

さて。
話を元に戻すと、知識を持っていれば持っている分だけ、人は得意になります。

知識は、人の差を測る有効なものさしになるのです。
つまり、知識は分離を促すツールになってしまっているのです。
なぜでしょうか?
なぜなら、間違ったエゴは知識が大好きだからです。
知識を探求していけば、自分が存在している感覚がより強くなるからです。
安心するのです。間違ったエゴは、安心したいのです。

このように、社会では知識が重要視され、知識獲得への努力は大抵、奨励されるのです。
けれども、残念ながら、知っていることは、知らないのです。
突き詰めていけば、「全然、わからない」ということになるのです。

もし誰も彼もが、「知っているように見えるけどさ、ほんとは知らないんだよ」
なんて誰も彼もが笑いながら話せたら、
どんなに明るく、軽く、ほがらかな社会でしょうか!!
そして、そういう人は、明るくほがらかで、謙虚な人ではないでしょうか?

もしかしたら、あなたにとってはそうではないかもしれません。
けれども、私の経験では進歩した存在というものは、こういう存在であり、進歩した社会とは、こういう社会のことです。

そして、私たちは”残念ながら”、こういう社会に向かって今、進んでいるのです!

私たちは、知っていると思っていますが、
実際は、何も知らないのです。

自分が何も知らない事を知ることで、私たちはやっかいな重荷を降ろすことが出来るのです。

では、知らないという事を知るということを、もっと掘り下げてみていきましょう。

☆知識に本当の価値はない

この世界では、知識がとりわけ重要となっています。
知識があればあるほど、人として優秀だとされています。
逆に知識がなければないほど、人生は不利に働き、バカにされるのです。

法律の知識、科学の知識、ビジネスの知識、医学の知識、コンピュータの知識などなど、ありとあらゆるところに知識があり、その知識を知っていればいるほど、重宝される事になります。

しかしながら、わたし達は、本当に知っているのでしょうか?
知っているのなら、わたし達は、何を知っているのでしょうか?

私が人生を生き、観察した結果から言える事は、たとえどんな知識があるにせよ、究極的には、一つを除いて、どんな知識も価値がない、ということです。

ただ一つを除けば、どんな知識も価値がありません。

こういうことを言うと、目くじらを立てる人が出てくるでしょう。
目くじらを立てるのは、自分が知識によって有利に生きてきたからです。

なぜ、知識に価値がないのでしょうか?
なぜなら、誰もが知識によって、生まれたわけではないからです。
知識によって、死ぬことを免れることが出来るでしょうか?
知識が、体の痛みを即座になくしてくれるでしょうか?

知識は、表面的な人生を助けてくれるかもしれませんが、それだけです。
最終的には、間違いなく彼に裏切られます。

知識によって、有利に生きてきてしまった人は、ある意味、知識を神のように思っているのではないでしょうか?

知識によって成功していると思っているのが、この世界ですから、まずは疑ってみましょう。

☆例えば、宇宙について

例えば、宇宙についてみてみましょう。
私は、宇宙について、ほとんど何も知りません。
星座の位置も知りません。一般教養としては、低すぎるぐらいの所にいます。
けれども、見てみましょう。

天文学者からしてみれば、私はかわいい無知な男性という事になります。

「いいかね、これから宇宙の素晴らしさについて、あなたに教えてあげよう」

彼は、親切にもこう教えてくれるかもしれません。

けれども、彼は宇宙の何を知っているのでしょうか?

私たちの銀河系は、どこに向かって動いているんですか?
何の為に、動いているんですか?
その行き着く先には、何があるんですか?

この質問に答えられるでしょうか?

そうすると、全てこう答えが返ってきます。

「~だと思います」
「~だと考えられています」
「~だと思われます」
「~だと言われています」

こんな感じです。
これらは、一体何でしょうか?
突き詰めれば、これらは単なる推測、憶測に過ぎません。

つまり、知らないのです。
つまり、わからないのです。
自分は、知っていると思っていても、実は知識の大半が借り物であり、推測や憶測の産物でしかないのです。

私たちは、自分が生きているという感覚は、100%あります。
そこに、思われるだの、考えられているだのといった、表現はありません。

よく言われるのは、「私たちはわからないから、知ろうと努力しているんです。
その努力をバカにされる覚えはありません」

もっともな事です。そして、バカにもしていません。
けれども、その知識の行き着く先を知っているのでしょうか?
その知識の本当のゴールは、何でしょうか?
ゴールを知らないのに、知ることに執着するのは、ばかげている事です。
余りにも滑稽です。

そして、その滑稽な姿が賞賛されるというのは、実に奇妙な事です。

☆夢を見ていることに、気付けない

知識を持っていることで、私たちは、差異を生み出してしまうのです。
「私は知っているけど、あなたは知らないでしょう」
自分が持っている知識にうっとりしてしまって、まさしく夢中になっているのです。
最初は、そうではないかもしれません。
しかし、徐々に徐々に侵食されていき、自分が夢中になっていることすら、気付けなくなっていくのです。

ですので、あなたは何も知らないんだ、といわれると、間違いなく腹が立つのです。
いい夢を見ていたのに、夢から突然起こされるからです。

もちろん、この幻想の世界がまだ好きで役割に浸っていたい場合は、全く問題ありません。
それはそれで、結構なことです。
この幻想の劇には、大勢のそのような方が必要なのですから。
しかしながら、どの存在も、いつかは幻想を幻想だと気付く時が来るのです。

そして、ギブアップの会は、そのことに気付こうとしている方、既に気付いた方の為にあります。ここで、ご紹介している各テーマは、その為にあるのです。

☆その知識を得た人は、誰ですか?

私たちは、根本的に何も知りません。

何かの知識を得たことがあるでしょう?
でも、その知識を得たと思っている人が、あなたは誰だか知っていますか?
その人、つまり、自分はいつ生まれたのでしょうか?

これが、私が誰も知らない、といっている意味です。
知識を持っている人が、実は誰なのか?誰にも、答えは出せないのです。
そうであるなら、誰が何を知っているのでしょうか?

実は、自分は何も知らない。ということは、優秀な人ほど、高学歴な人ほど受け入れることが難しいでしょう。
それは、自分が知識によって成功してきたからであり、それを全否定するような
事実を簡単には受け入れられないからです。

例えば、知らないという事を知る、と聞いた時点で、このような方は、記憶というデータベースに瞬時にアクセスし、学んだ事をひっぱってきます。

「確か、あの哲学者が言ってたな」などなど。

そういう借り物の概念をもってくるようプログラミングされているので、基準がいつもいつも自分が学んだ概念になってしまうのです。

もうこうなると”純粋に知る”、ということが出来なくなってしまいます。
こういうことから、彼らは進歩の歩みが非常に遅れがちになってしまうのです。

☆知らない事を知る事で、分離、執着から解放される

知らない、ということを知る事は、とてつもなく謙虚な在り方です。
なぜなら、もうそこに、「俺のもの(知識だ!)」といった誤った理解がなくなるからです。何かの知識を得たとしても、威張る事もなくなります。
人と比較する事もなくなります。知識に対する執着もなくなってしまいます。
知識は今まで、差異、分離を生み出していました。
これからはもう、その分離はなくなっていくのです。

これを直接的、経験的に理解できたのなら、非常に楽になります。
自動的に、傲慢さやプライドといった進歩の足かせとなっていた在り方も消えていってしまいます。

間違って欲しくないのは、知識を軽んじているわけではないのです。
大切な事は、どんなに知識を得ても、実は何も知らないんだ、ということを知っていることが肝要なのです。
そうすれば、間違ったエゴ特有のプライドや執着といった重い鎧から解放されるのです。
解放される事で、鎧で隠されていた光が輝きだします。
あなたが輝く事で、他の存在は、まさしく道を見つけることが出来るのです。

☆知識という罠

この知識という落とし穴には大抵、誰もが落っこちます。
私自身の経験で言えば、目覚めが起こった後にすら、この罠にひっかかりました。

自分自身への目覚めがやって来て、私であったものが死にました。
その後、スピリチュアルというものがあることを知り、調べていくと、そこには沢山の魅力的な概念があったのです。

シリウスや地球の過去の歴史、地球を見守ってくれている存在たち、ヨガ、マントラ、禅、チャネリング、現実を創造する方法、瞑想、各次元について、いろいろな超能力、アセンションやいろいろなマスター、ヒーリングテクニック、幽体離脱などなど。

本当に魅力的なものがありました。
これらを探求してみたい衝動に駆られ、私はナチュラルスピリットという会社で働くことにしました。

☆知識を持つことの悪循環

そこで働き、調べた結果、これらが助けとなるよりむしろ、足かせにしかならないことに気付きました。
誰も彼も(私自身も含め)が、自分が所属している所、何を信じているかに執着し、そこから抜け出せないでいるのを見ました。

シリウスや他の進歩した星について、沢山の知識を持っているかもしれません。
地球の歴史、ピラミッドや地球の内部についての知識をもっているかもしれません。
しかしながら、これらの知識を豊富に持っていればいるほど、瞑想などを通して、沢山の経験をすればするほど、実は分離を促しているのです。

どのように分離を促すかといえば、

「私はこれだけの知識を持っている、あなたはどうですか?」

「私は苦労してこれだけの努力をし、瞑想についてこれだけの知識を持っています。あなたはどうですか?あ~、そのやり方ですね。私は、知っています。」

こういう風にして、優劣や差異、分離というモンスターを生み出します。
こういう方にもし、

「あなたが知っている事は、大したことではないですよね?」

と問いかけると、大抵不機嫌になります。

なぜでしょうか?
なぜなら、執着しているからです。
そこで、”本当に”一緒に笑い飛ばせる方であれば、その人は”知っています”。

☆ジョークでしかない

こういうわけで、スピリチュアルであろうと、科学であろうと、サッカーであろうと、ビジネスであろうと、何であろうと変りはありません。

誰も彼もが、自分というもの、自分と紐づくものをバカバカしいほど懸命に守り、固執しているのです。
私はこの人生で、自分というものを全く大切にしない人に出逢った事がありません。

どうして存在してもいないものに固執する必要があるのでしょうか?
否、存在していないが故に、固執する。というのが正確です。

繰り返しますが、知識を得ようとすること、知識を持っていることが問題なのではありません。
知識を得た後、必ずと言っていいほど、得たその自分に固執するのが最悪な結果なのです。
問題なのは、それが欲望であった場合、欲望ゆえに、辿り着く場所は、束縛だという事です。
もしかしたら、その人は自由を求めて知識を採集していたのかもしれません、しかしながら、気付いてみると、自由、解放を求めていたはずが、より一層頑固な
牢獄に入ってしまっていたのです。これは、残酷なジョークです。

☆びっくりする

いいでしょうか?
あなたは、何も知りません。
どうしてそうなったのか?なぜ、そうなのか?
それらを突き詰めても、結局は推測の域を出ません。

けれども、あなたは、推測ではなく、事実です。
そこを忘れないで下さい。

知らないのに、あなたはそれを知っているのです。
このことに驚けるようになってくれば、しめたものです。
この状態が常態となっているならば、その方は、まさしく謙虚さの鏡のような存在です。驚けるのは、知らないし、わからなければ出来ないのです。
予測なく、期待がないからこそ、びっくりするのです。
びっくりするからこそ、私たちは自分の本性に気付けるのです。

まずは知らない事を知りながら、人生を生きていってください。
それは、知識をバカにする事ではなく、知識を受け入れていき、学んでいきながら、自分が幻想の中での、ある役を果たしているだけである事を受け入れることです。
そういう謙虚な在り方を実践し続けていけば、やがて機が熟し、果実は落ちるのです。

以上で、第5回目の講義を終わります。

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